学ぶということ

お知らせ

子供の頃から「学ぶ」ことが上手くなかった。

「教わるのが下手」と言った方が良いかもしれない。

特段の理由があるわけでなく、単に記憶力が弱いから教わっても次々と忘れてしまい、残った記憶が脈絡なく繋がるからだと思う。

そんな自己認識があるからか、教える側にまわると妙にくどい。

仕事の場面でも自分の説明がくどいと思うことが多々ある。

「簡潔に分かり易く」を心がけているが、思うほどうまくは出来ない。

 

 

友人に記憶力抜群の奴がいて、授業中で教師の話を殆ど理解し、かつ確実に記憶していた。

こちらは授業が終わってもどんな内容がだったか、ノートを取るのに夢中でまるっきり覚えていない。

学業優秀と言われる奴ほどよく勉強してますます成績を伸ばし、あまり出来のよくない私たちは、

遊ぶのに夢中でさほど勉強しなかったから差は開く一方だった。

出来のいい奴ほど努力し悪い奴ほど努力しないという現実は、本来逆であるべきだが、

そうならないのがまた現実の面白いところだ。

努力できる才能というのもあるのだろう。

昔の受験は記憶力が結果を左右したから、出来のいい奴(記憶力のいい奴)はほとんど一流大学に行ったがその後は知らない。

学業優秀だけでは渡り切れない世の中だが、学業優秀な方が確率的には大過なく渡れるのも世の中だろう。

 

 

「教わるのが下手」な自分には我ながらうんざりする。

いちばん辛いのは陶芸のシーンで、せっかく一流陶芸家に教えてもらったこともすぐに失念したり、間違って記憶する。

断片的知識は豊富だと思うのだが、中心になる「基礎」と言う<幹>がないから、要は枝葉のみというやつ。

私の陶芸は全くの自己流で、基礎が出来ていないからひとつの知識に到達するにも時間がかかり、

かつ多くの失敗を重ねてから誰もが知っている基礎知識に到達する。

だから失敗の数だけは多いが、主観的な知識が多いだけで自慢するものは何もない。

一片の知識を得るのに数回の失敗や、数年の時間を要することが自己流の辛いところだ。

情けないことだが、「思いて学ばざればすなわちあやうし」を見事に体現している。

 

 

出来れば陶芸の専門的なところで基礎から学びたいと思うのだが、60過ぎを受け入れてくれる教育機関は殆どない。

陶芸教室は沢山あるがここは論外。窯業地にある専門学校が希望だがすべて年齢制限がある。

仕事を辞めて陶芸をという決心も付きそうにない。

 

 

昔、五木寛之が人気絶頂の頃に突然「休筆宣言」をし、龍谷大学の聴講生になって真宗の勉強を始めた時、

自分には到底できそうにもないことを始めた作家に驚き、感動し、憧れたことがある。

何かを根本から学ぶということは、自分が既得しているなにものかを捨てるということなのだろう。

既得のもの丸抱えで新しいものを得ようとしても土台無理かもしれない。

流行作家として一番もてはやされていた自分を世間の評価から隔離する重い決意がなければ、

今日の五木寛之はなかったかもしれないし、『親鸞』3部作は生まれることもなかっただろう。

 

 

たった3~4年、世間からドロップアウトするだけのことを不安を感じて出来ない私自身は、

おそらく仕事と陶芸の半端な2足草鞋でどちらも大したことは出来ないと思う。

なにより、自分の才能に懐疑的になるところがダメな根本かもしれない。

「俺は天才だ」と自己暗示をかけようにも、すぐ現実が見えてしまうから暗示すら掛けられない。

盲信も時には力の源泉になるのだが・・。

 

 

103歳まで生きた片岡珠子は、若い頃教師をしながら日本画を描き続けるため、布団で寝たことがないという。

文字通り寝食を忘れた生活を続けられたのは、より良い作品を描きたいという思い(執念)のみだったろう。

下世話な話だが、若い女性が身繕いもせずいつも丹前をかぶって寝ていたというのだから、風呂にもあまり入らず結構体臭もしたと思う。

たしなみとしての化粧などもろくにしなかったのではなかろうか。

納得する作品を生み出すため、若い女性としての身だしなみや「他人の目」を捨てたのではないかと思う。

当たり前だが、こうした日常をくりかえさなければ「生き残る美」の深淵には到達できない。

美を生み出そうとするものが自分の身の回りを気遣う余裕など持っていたら、おそらくその手に「美の神」は降りてこない。

 

 

余談だが、画家と言われる人たちは大抵長生きをする。

少年期、油絵に没頭し画家を目指した(今思うと才能はなかったから画家として立てたか疑問だ)経験からすると、

画家の長寿「現象」はとてもよく理解、実感できる。

絵に向き合い、線をどのように引くか、色をどう置くかなどを考えている時は、

頭の中にはそれ以外まったくなく、時間が止まっているからだと思う。

一般的な時間の流れの外にいるという感覚は、油絵少年の時によく実感した。

「画家が絵に向き合っている時間は止まっている。若しくは、私たちの時間とは別の世界で刻まれている」これが私の認識だ。

結果としてかれらが普通の寿命を生きたとしても、別の世界で絵に向き合っている時間が加算され、

一般の人の寿命と比べて長くなるのだろう。

科学的根拠のない信仰のようなものだが、長い間の実感だ。

 

 

私の陶芸は、これからも自己流の回り道が続くのだろうか。

「学びて思わざれば即ちくらし、思いて学ばざれば即ちあやうし」

まったく先人はいいことを言ったものだが・・。

 

(燻し筒花生)

写真HP更新用 004