5月の宗旨替え

お知らせ

新芽が日々成長し、肌を晒しても寒さが感じなくなる5月は、何度味わっても気持ちがいい。

「髪梳けば 髪吹きゆけり 木の芽風」

と謳ったのは、鈴木清順「けんかえれじい」の松尾嘉代だったと記憶している。

5月の風に当たるとこの句が浮かんでくる。

 

 

もうひとつ条件反射的に浮かぶのは、5月に生まれ5月に死んだ歌人・寺山修二『われに5月を』の幾つかの歌だ。

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」(チェホフ祭)

当然、啄木の「ふるさとの訛りなつかし・・」を本歌取りしたと思うが、

早熟な天才らしく技巧的で、おあつらえ向きの情景が浮かび、ピタリはまり過ぎて何とも言いようがない。

それでも青森育ちの歌人が新緑5月に込めた思いは、いつ読んでも新鮮だ。

長く厳しい冬が続く東北の人にとって、我々以上に5月は心躍る季節かも知れない。

寒い冬が苦手な私は、ただ単純に寒さが消え日差しが明るく日が延びてくるだけで、

「イートシヲシテ」単純にうれしくなる。

 

 

あと何度この小さな幸福感を味わえるか分からないが、

何時かこの生気あふれる季節に置いて行かれ、5月を疎ましく思う年齢になるのだろう。

自然が一挙に生気をみなぎらせる5月が、老いの身には疎ましいと書いた作家がいたが、

老いて死と向き合う身には、自然の息吹が溢れるさまも喜べないのかもしれない。

私はまだ5月の感触を喜べるから、取りあえずはありがたい。

 

 

5月になって工房のツバメ5羽のうち1羽が巣から落ちた。

セフティーネットで発見した時はもう瀕死の状態で、巣に戻しても蘇生しないだろうと思いそのままにした。

ふと死んだ1羽は自分から落ちたのでなく、親ツバメの運ぶ餌の量が5羽には足りなくて、

残りの4羽が自分たちが生きるため、一番弱い1羽を落としたのではないかと想像した。

根拠のある想像ではないが、自然の摂理にはその程度の選択は当たり前だろう。

今月中にはヒナも巣立ってようやく静かな環境が戻る。

(5/31巣立ちをしたが、まだ外界が怖いと見えて何度も巣に戻る。)

 

 

GWに薪窯をと考えたが、体力的にきつい火もしの助っ人が確保できず断念した。

助っ人の件もあったが、実はいちばん大きな理由は最近ブレンドして使っている土の耐火度が低く(最近の土は殆どが電気やガス窯用)、

薪窯で焼いたら殆どヘタってしまい、薪窯では到底無理だったからだ。

そんな訳でGWから今日まで、電気窯で焼けかつあげても邪魔にならないだろう食器作りに没頭している。

所謂、コーヒーカップや湯呑、小皿、小鉢。

もともと食器はあまり作らなかったが、今回大量に作ってみたら、

当たり前だが食器には食器作りのコツがあり、湯呑みや皿、鉢などを作る過程でそれぞれの発見があり、

なによりその発見が一番楽しく、いまも作り続けている。

「食器は基本的に作らない」と公言していた身が、急に食器作りの楽しさに目覚めたのだから宗旨替えみたいなものだ。

 

 

村田亀水先生は、長く煎茶家元の仕事をしていたから膨大な数の煎茶碗や急須、食器を作った人だが、

いつお邪魔しても手元には試作品程しか残りが無く、それが先生の評価を如実に物語っていて感心した。

作家の中には自分の代表作と思われる作品を手元に残す人がいる。

作り手としてその気持ちも分かるが、それを「ナリワイ」とする身である以上、私はあまり感心出来ない。

私がいろいろ教えてもらう鈴木三成、若尾利貞、村田亀水の3先生は誰もが、代表作と言われるものは手元に保存していない。

その潔さが私は気に入っている。

 

 

私が面倒くさいことを理由にまだ1個も作っていない急須を、亀水先生は生涯に数千作ったと思う。

急須1個を作り上げるのには5つの細かいパーツを作り、それを乾燥のタイミングをみて組み立てるのだが、

私のように集中力と技術のないものには、考えただけでバックする分野だ。

多数の注文に応えられる技術と集中力は、単に生活の為という範疇を越えやきものに対する愛着と覚悟が備わっているからだと思う。

どんな注文にもノーと言わない技術と自信は、亀水先生を最後に日本のやきもの作りの世界から消滅してしまったようだ。

昨今の作家然として使いにくい器を臆面もなく晒す輩を見るとこちらが赤面してしまう。

 

 

食器作りに没頭している毎日だが、

私の食器が使いやすいかどうか、引き取り手も少ないから評価はよく分からない。

あまり納得できず、かといって割るに忍びない器は自分で使ってみるが、

私の作った食器には名工・村田亀水の食器ほど気品が無いのだけははっきりわかる。

 

 

↓左がメイ、右がネオ。

5月は仕事も暇で5時過ぎると会社は私だけになる。

社員が退社した頃になると、計ったように2Fから降りてくる2匹。

時間の感覚(体内時計)があるのだろうか。

外に出たことが無い2匹に外界はどう映っているのだろう。

「遊ぶのは飼い主の義務」といつもプレッシャー。